Wednesday 22 August 2018

ひとつ半


もうすっかり夜だった。
男がタクシーに乗り込むと、そこにはすでに、女が乗っていた。
男は怒って、タクシーの運転手に、どういうことだとせまった。
「あれ。たしかに空車だと、表示が出ていたではないか?」

運転手は、横目で男を見てから、女に、ここで連れを拾っていくからと。そして、あなたがそうだから、車を止めてください、と申し付けられたといった。
男はそこで、はじめて女の顔を見た。知らない顔だ。年は十七にも、二十五にも見えるが、若い女だった。
明日は休みだ。この可愛いきちがいの戯れに、付き合ってやってもいい。それに、若しかしたら本当に知っている女かも知れない。
すでに車は走り出していた。

男はまずきいた。
「お嬢さん、失礼ですが、どこぞでお会いしましたかな?」
女は硬い表情のまま、しばらく黙っていたが、やがて、小さな声で話し出した。
「お前さんが、島根にお仕事で来なすった時です。山間にある食堂で、お昼をお食べになられたのを、覚えておいででしょうか。その時は、おうどんをお食べになっておられました。わたくしは、そこの雇われ女です。」

女は、妙な言葉づかいであった。若いくせに、似合わない古臭い言葉をつかっており、話の内容以前に引っ掛かった。
と、そこで男は気がついた。タクシーの運転手は、カーラジオからずっと、落語を流して聞いていた。小さな音だったが、この若い女は、たしかにこのラジオからきこえる言葉を、真似して話していた。
それがわかると、なんだか男は無性におかしくなり、この若いお嬢さんの必死の狂言を、どう暴いてやろうかと、胸の中で笑った。

「たしかにぼくは、去年出張で島根に行きました。うどんを食べたのも覚えています。だけど、そこにあなたのような美しい女性がいたかな。若しいたら、覚えているとおもうのだが。」
そういうと、女はぽつりと、
「ひとつ半です。」
といった。
「ひとつ半?時間ですか?」
時間はまだ、零時前だった。
「いいえ。あなたの…」
といって、女ははたと口をつぐんだ。何かに気づいたように、目と口を開いている。そしてこちらを見ていった。
「気づいておられないです?」

ぼくはなんだか腹立たしくなって、ちょうど家の近くに着いたところだったので、タクシーを降りてしまった。